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管理人の「父親」のプロフィール
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1 大正13年和歌山生まれ。
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2 大阪へ丁稚奉公に行く。
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3 呉海軍工廠へ徴用となり、工員として戦艦大和の艤装に立ち会う。
【父親談:「大和の舷側には大きな穴が開いていて、そこに特殊潜航艇を搭載する予定だったらしい。」と言っていた。仲間内ではそんな噂が広まっていたのだろう。(実際は内火艇やランチなどの収容スペース)また、「大和の甲板は野球ができるほど広かった」とも言っていた。確かに現存している写真を見ると広い。でも普通の野球というより三角ベースの野球ができる程度であるので、やはり乗艦したときは、その大きさに圧倒され、度肝を抜かれたのだろう。「大和の主砲は40サンチで中に人が入れた」とも言っていた。「特殊な40サンチだった」といっていたようだが、やはり46サンチだとは知らなかったようだ。40サンチ、36サンチと言っていた。「戦艦扶桑は、艦橋が「く」の字に曲がっていてすぐに識別できた。」とも言っていた。】
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4 徴兵され陸軍へ。内務班をへて、航空隊の地上部隊として満州で歩哨に立つ。
【父親談:「呉の海軍工廠では、海軍のイヤなところをいっぱい見たので陸軍にした。」と言っていた。内務班では、機転を利かす事により上官に気に入られ、結構楽ができたらしい。「仕事も機転をきかさなあかん。」「軍隊は
隊や!」とも言っていた。結局、戦地には1年弱くらいしかいなかったのではないか?「100式重爆呑龍を見た。」と言っていた。「歩哨に立った時は総毛立つほど怖かった」とも言っていた。歩哨というと戦争映画では、真っ先にのどをかき切られ死ぬ役である。真っ暗な夜に一人ぽつんと、さぞ恐ろしかったことと思う。「♪父よ!あなたは強かった〜♪」】
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5 終戦後、シベリアへ抑留される。
【部隊はチチハルに展開していて終戦はハルピンで迎えた・・・だったか?逆かもしれない。戦友会の資料を調べなくては。】
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6 シベリアのラーゲリ(収容所)では.、あまりの空腹に飲めない酒を飲み倒れる。後、ソ連の軍医が炊事班へまわしてくれたので、つまみ食いで体力回復をはかる。
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7 しかし、あまりに元気になりすぎて、内地への引き揚げは一番最後になってしまう。計6年くらいシベリアにいたらしい。
【引き揚げ船で帰ってきたはいいが、シベリアでは日本人への共産主義教育が日々なされていたので、「アカ」=(共産主義者)と見られて就職がなかなか決まらなかったらしい。】
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8 縁あって私のオカンと結婚。2男1女をもうける。
【私の幼いころには、シベリアから持って帰ってきた飯ごうがあった。釘かなんかで自分の名前を刻み込んであった。
「名前を書いておかないと盗られるねん、1度盗られた」と言っていた。
そのときは、カツオブシ入れとして我が家の日常で使っていた。また、軍隊の毛布も押入れの敷物として使っていたのを覚えている。
そのまま、保存しておけばよかったとは、現在だから思えること。当時はなんか暗いイメージであんまり見たくなかったというのが正直なところです。】
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9 平成元年永眠。




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